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幼いころより、私は夢と現実の境界線を引く努力を続けてきた。つまり夜『眠る』という行為を、部屋の電気をカチリと切るように親指をちょいと動かすように、ごく当たり前にできる動作にしたくて、毎晩、感覚を研ぎ澄ませて夢の訪れを待ち伏せた。好きな夢を見られる機械など必要なくて、夢を夢だと自覚することができればそれで十分だと思う。なぜなら日々降り積もる破廉恥な妄想とは無関係に、夢の中の私はいつだって紳士だったから。羊が一匹、羊が二匹と数えて眠る方法がある。あれは本当に恐ろしい、です。羊が二十何匹か、で、今何匹まで数えたのだったか、忘れてしまう。羊が二十何匹。あれ、また忘れる。そして気が付いたら、もう朝。思考の放棄。私は毎晩死ぬ。眠っているのではない、息をしながら、死んでいる。羊を数えていないときでも、眠りへ繋がるサインがあって、例えば布団の中で今日私がしでかした失敗の場面を反芻している途中、一匹の蛙が目の前でじっと座っていて、私が長いあいだその蛙を観察していたことにふと気が付くような、思考がとーんと遠くへジャンプする感じ。着地した後で私は、あっ、今ここで考えていることは夢へと入る現実の端っこだったな、なんて、明日の朝呑気に思い返すんだろうな、ということを自覚しつつも、もう、止められない。アインシュタインの見る夢を想像する。想像しているのが私の脳なんだから、正しく想像なんてできないのか。モーツァルトの見る夢を想像する。それでも、誰誰の見る夢というフレーズがなんとなく好き。女子高生の見る夢を想像する。おじいちゃんが見る夢。幼子の見る夢。殺人鬼の見る夢。あっ、
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